大村益次郎先生の遺言で叩き潰されたものとしか認識してなかった西郷隆盛と西南戦争。興味を持ったのは臼杵、佐伯、竹田と豊後を旅していて豊後に西南戦争の戦禍が及んだことを知ったからである。西南戦争→熊本・鹿児島というイメージしかなかった。
熊本で敗れ、敗北が既に決定した後に、豊後で「もう一つの西南戦争」を行ったのは野村忍助という1人の男だった。薩軍の主流は西郷隆盛と同じ町である加治町で育った人間たちだった。それは薩摩藩の教育制度によった。野村はそれからすると出身が「異端」であった。気質的にも薩摩人が理想とする「木強者(ぼっけもん)(純朴苛烈)」ではなく嫌われる「議者(ぎしゃ)(知恵を働かせる者)」であった。
しかし、野村忍介の豊後の戦いのみが局地的であっても薩軍が唯一能動的に戦った戦線であり、薩軍の敗北を遅らせた。野村は西郷隆盛らの可愛(えの)岳脱出の時と城山突入の前に西郷に置いていかれた。気質的には合わないところがあっても、西郷の「生きろ」というメッセージだったと解釈する人もいる。結局城山にまで入ったが、最後に投降し、生き長らえた。
西郷の人格的吸引力に惹かれながら、薩軍の非戦略性に最後の最後まで執拗に提言し続けた野村の情熱の持続力には驚嘆させられる。
薬漬けとPTSD否認で自滅しつつある日本精神医学は薩軍の姿と重なる。反精神医学でもなく、非精神医学でもなく、精神医学の枠内で適正な診断治療に修正を図ろうとする私の姿と野村忍介が似ているように思えた。
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野村忍助(おしすけ)もう一つの西南戦争、単剤化・PTSD薬物キュア(治療)
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